中西研二氏はヒーラーとしての功績により、東久邇宮記念賞を受賞しました。記念会の顧問・岩田氏は、発明の振興を通して大衆の力を引き出した先人お二人の尊い遺志を引き継ぎ、そして自らの戦争体験から生まれた平和への強い願いを記念賞に込められています。

東久邇宮賞受賞を記念して
日本中みんなが手をつなぎ、
元気になりましょう

対談:岩田元吉氏×中西研二

岩田元吉(いわた・もとよし)●元特許庁出願課認証官。(株)日本特許研究所、(有)岩田特許企画の代表を歴任。現在は知的所有権協会・特許管理士会・東久邇宮記念会顧問として発明振興と著作権普及活動を行う。

中西研二(なかにし・けんじ)●1948年東京生まれ。NPO法人『JOYヒーリングの会』理事長。有限会社いやしの村東京代表取締役。ヒーラー。ワンネスメディテーター。新聞記者、セールスマンなどさまざまな職業を遍歴の後、1993年に夢の中でヒーリングを伝授され、以来20年間で20万人を超える人々を癒し続けている。また、2004年9月にワンネスユニバーシティでワンネスディクシャという手法を学び、以来、この手法を通して、多くの人々がワンネスの体験を得る手助けをしている。2012年2月には、日本人のワンネスメディテーター6名(現在は7名)のうちの一人に選ばれ、以降ますます精力的に活動している。著書に『そのまんまでオッケー!』『悟りってなあに?』『あなたはわたし わたしはあなた』(共にVOICE刊)がある。

特殊潜航艇の搭乗員として戦争に参加

中西 御年90歳になられて、いまなお現役で日本のために奔走されていますね。そのエネルギーの源になる体験が、戦争であったということですが……。

岩田 戦時中は予科練として航空隊に所属していましたが、国のために命を捧げようと特攻隊を志願しました。

軍用列車に乗った時点では、自分がどの部隊の特攻隊に配属されるのかわかりませんでした。それはマル秘事項なので、列車の窓も閉ざされていて、どこに行くのかわからないようにしてありました。

かなり長い道のりを経て到着したところは潜水学校でした。それで特殊潜航艇の搭乗員になるんだとわかりました。僕はそれまで航空隊にいて飛行機のことを勉強してきましたが、今度は朝から晩まで潜水艦や魚雷の構造の勉強をすることになったのです。

僕が乗る潜水艦は、沖縄戦で使った『蛟龍(こうりゅう)』という名の小型潜水艦でした。魚雷を2本積んで乗りこむ特攻兵器です。

中西 人間魚雷というと『回天』が有名ですが、『蛟龍』という潜水艦もあったのですね。みんな志願だったのですか?

岩田 ええ。血書志願といって、自分の血で嘆願書を書くわけです。すごい覚悟でした。当時の日本は、そこまで国民の意識を昂揚させていたのです。死ぬことが怖くありませんでした。国民のためならという気持ちでしたから…。

中西 もう少し戦争が延びていたら出撃されたのでしょうか。

岩田 沖縄作戦で海に散っていたでしょうね。当時のことは誰も話したがりません。口に鍵をかけてしまったのです。それでも、戦争に参加した僕たち世代が、戦争は二度としてはいけないということを、後世に語り継いでいかなければなりません。

戦後も国民のために産業復興に尽くす

中西 本当にそうですね。みなさんそういう思いで、忘れたい過去を勇気を持って語り継いでくれていますね。

戦後はどうされたのですか。

岩田 終戦後しばらくは、精神的打撃がひどかったです。特攻隊に志願したとき、1週間の休暇をもらって帰省し、家族にいままでお世話になったお礼を言いました。両親も僕の戒名まで作ってくれていました。それくらい国民全員が究極の覚悟をしたわけです。死ぬ覚悟で戦争に行ったのに、戦争が終わってしまって目標がなくなってしまった。抜け殻のようになってしまって、これではいけないと思い、新しい目標を設定しました。日本のために何ができるかを考えたとき、産業復興こそが最も大事なことだと思ったわけです。そう決めたら、おのずと商工省(経済産業省の前身)の試験を受けていました。

中西 なるほど。今度は復興で国のために尽くすことになったのですね。商工省ではどのようなことをされたのですか?

岩田 これからの世界は知的産業が非常に重要になってくると言われはじめていた時代でした。そのようなときに、特許庁に転属することになり、そこで発明審査の認証官として仕事をしました。

時代はちょうど高度経済成長期でした。いち早くアメリカなどの先進技術を持った国々と技術提携しないと日本は復興できないと思い、独立して特許やライセンスのリサーチをする会社を設立したのです。

中西 いま世界的に展開している多くの日本の企業が、岩田さんの復興への思いに支えられて成長していったのでしょうね。

岩田 特許というのは発明の技術的なことばかりでなく、幅広い知識が必要なのです。英語やドイツ語も読めないといけません。僕は英語なんて廃止だと言われた時代に育った人間ですから苦労しました。それでも自分のしたことが、戦後日本の産業復興の一助になったのであれば、たいへんうれしく思います。

発明こそが日本の資源

中西 そういう思いが東久邇宮殿下と共鳴されたのですか?

岩田 東久邇宮殿下の哲学は「発明に上下の貴賎はない」というものです。この記念賞は殿下の「ノーベル賞を百とるより、国民一人一人の小発明が大切で尊い。うまい味噌汁を考えた人には文化勲章を与えよ」という考えのもと、文化の発展に尽くした方に贈る賞なのです。

この記念賞は東久邇宮殿下が故豊澤豊雄先生のお考えに意気投合してできたものなのです。

中西 豊澤先生とはどういった方ですか?

岩田 国会議員のときに超党派の発明連盟を作った方です。超党派でそういうものを作ること自体が驚きですが、議員を辞めた後も財団法人の発明学会を作って、そこでいろいろなアイデアを出して、日本の発明を振興されてきました。

例えば主婦を対象とした発明大賞の設立や日曜発明学校の開催など、本当にアイデアマンでした。豊澤先生がそうやって発明に尽力されたのも、日本は資源がないから発明こそが資源というお考えのもと、発明家を養成されていたのです。

中西 なるほど。東久邇宮殿下と意気投合するわけですね。そうやってお二人が出会い、記念賞が生まれたのですね。

岩田 ええ。「発明は文化である」という理念のもと、賞の対象がすべて発明品で構成されているわけではなく、絵や音楽などの創作活動も発明の一つと考えています。また形になる前の「アイデア」に対しても評価して賞の対象になっています。

お二人がなさったことは「褒めて褒めて日本を元気にする」ということでした。人間は、けなすことはしても褒めることはなかなかできないものです。日本のためを思って、褒めて元気にしてくれていたのです。そのお考えをとても尊敬します。だから私はお二人が亡くなったあとも、遺志を継いで活動させていただいています。

発明は平和の文化賞

中西 今年で90歳になられるとは思えないほど、お元気ですね。とても素晴らしいことです。

岩田 僕は戦争体験者として、いまだに僕だけ生きていていいのだろうかと思うことがあります。多くの戦友を亡くし、残った者として、戦友の分まで日本のためにしっかり働かないといけないという思いはいつも心の底にあります。一緒に勉強した仲間の中には出撃した者もいますし、終戦後すぐに自決した者もいました。戦争は二度としてはいけないです。

中西 発明のように大衆の中から生まれるものは、平和な社会だからこそ。まさに平和の文化賞ですね。そういう意味では、これからも発明が盛んな平和な時代が続くことを願いますね。

岩田 終戦直後、日本は焼け野原でした。新橋駅に降り立ったとき、目の前は掘立小屋ばかりでビルなんてありませんでしたから、日本がここまで発展するとは思っていませんでした。今の日本を見ているとよくぞここまで……と感無量です。日本は神様に生かされているのだと思います。感謝、感謝です。今はいい時代ですよ。不穏な社会情勢に傾かないよう、もっと長生きして、平和の大切さを命をかけて伝えていきたいと思っています。そして日本中が手をつないで日本を元気にしていきましょうというのが僕の哲学です。

中西 応援しています。今日はお忙しいところ、ありがとうございました。

(合掌)

「いやしの村だより」2015年7月号掲載