2007年9月号
世界市民として
活動する人々によって
今、世界は変わろうとしている
NPO法人JOYヒーリングの会理事長・ヒーラー
中西研二(ケビン)
20年ぶりの友からメールが…
この夏、タイのバンコクで猛暑を吹き飛ばすような清涼感あふれる二人の友人に会いました。
行方も知らない友人から、突然E-mailが入りました。私のホームページを見て連絡してきたのです。それは懐かしい友人でした。しかも20年ぶりだったのです。青春真っ只中のころに共に天下、国家を論じ、徹夜で酒を飲み交わしたS先輩でした。
S先輩は、その後、ジャーナリストとして活躍。1973年、ベトナム戦争のころには、現地のレポーターとして派遣され、戦場から記事を送ってきたりしていました。それがきっかけとなって東南アジアに行くことが多くなり、S先輩と話したくても、彼から連絡がないかぎりつかまえようもありませんでした。そんなある日、共通の友人から 「S先輩が行方不明になった」 と連絡が入ったのです。2週間の予定で日本を発ったまま、2カ月も音信不通になっているというのです。行った先はタイ。チェンマイから国境を越えてミャンマーの山岳地帯に入ったということまではわかったのですが、その後連絡が途絶えていたのです。そのとき、日本大使館の対応は 「それはもう助かりません。生きている可能性はありません」 と相手にしてくれなかったようです。私たちは、為す術もなく、ほとんど全員が 「死んだ」 とあきらめかけていました。ある日のこと一本の電話が入りました。
「Sですが、今日本に帰ってきました」
半年ぶりに聞く声でした。生きていたのです。彼は、山岳ゲリラとの接触に成功し、そのまま行動を共にして山の中を歩き続けていたので、連絡ができなかった、とのことでした。(このときの模様は、ペンネーム「竹田遼」のインターネット検索で引けば、電子本で読めます)
こんなお騒がせな先輩でしたが、人なつっこくて、優しい性格で、何より憎めない男で、私にとって本音で話せる友人の一人でした。
それからも時々会って酒を飲み親交を深めていたのですが、最近では、まったく音信不通になっていました。
20年ぶりの連絡は、ミャンマーのヤンゴンからでした。私の活動をインターネットで知って「お互い協力できることもありそうだから、会わないか。ぜひともミャンマーでもベトナムでも来てくれ」という内容のものでした。忙しいと断ると「私ももう若くないので、このまま今生では会えないかもしれない」と淋しそうな文面が返ってきたので、思い切って家内と出かけることにしました。
ミャンマーの山岳民族につくす友
再会の場所はバンコク。20年ぶりに会ったS先輩は、頭が光り輝いていたほかは、62歳になるのに若々しい容姿でした。
彼は今、ミャンマーで日本料理店を経営しており、ベトナムのホーチミン市と半々の生活をしているとのこと。彼が親交の厚かった山岳ゲリラの人々は、10年前に中央政府と和解が成立して、自治権を得て、百万人の少数部族が平和に暮らしているそうです。そうなると、今度は生活するための職業と教育の問題が浮上します。ミャンマーは実に120もの言葉があるようで、公用語は最大勢力のビルマ語ですが、少数部族にはチンプンカンプン、しかも辞書もありません。子どもたちが学校で学びたくても言葉がわからなければどうすることもできません。S先輩は 「これからの一生は少数民族のための辞書作りに専念したい」 と語ってくれました。この地域は山の中ですから電気もありません。教育現場にもいろいろ問題があって、「こっちの学校には、体育の授業とか、音楽もないんだ。でもあまり中央政府を刺激しないようにゆっくりやるよ」
それと外国で働きたい人たちが、今現在登録されている人だけでも4、000人を超えているとか。しかし、日本での受け入れ先にブローカーが介在していて、ピンハネなど、まるで奴隷のごとく扱われているのが現状のようです。
「何とかNGO法人のような団体を作って受け入れてほしい」と熱く語ってくれました。
S先輩は日本人として生まれ育ちましたが、今では、日本語の他、英語、タイ語、ビルマ語、ベトナム語、その他少数民族の言葉を駆使する国際人で、考え方も一国に留まらず、広い視点から観て判断するのが当たり前になっていました。バガヴァンの言う世界市民に会った実感がありました。これを機にお互いに協力し合うことを約束して別れました。
猛暑のバンコクは清涼感にあふれて
その後に、バンコクの喧騒の中にいたのに、大自然に触れたような清涼感が漂っていました。
「バン・トー・ファンプロジェクト」ってご存じですか? 日本語に訳せば 「夢を織る家」 という意味だそうで、この創始者カンパナート・ブアンホンプラさんとお会いさせていただきました。
彼のことを知ったのは、約2年前、カルキセンター・ジャパンの松本みつ江さんから、バン・トー・ファンの孤児たちが作った麻の服を贈っていただいたのが最初で、今年6月末のアナンダギリ氏のカンファレンスで日本に来日された折にあいさつした程度だったのですが、メールを頂いてぜひお会いしたいということでしたので、バンコクに行くことになったことを告げると、日程をわざわざ合わせて会いにきてくださったのです。後でわかったのですが、車で8時間以上かかる山の中から会いにきてくださったのです。それだけでも感激でしたが、彼の考え方、さらに活動の内容は、まさに愛にあふれるものでした。このことは次回に詳しくお伝えしますね。
(合掌)