2008年4月号
還暦を迎え、もう一度
ヒーリング活動の原点に戻って…

NPO法人JOYヒーリングの会理事長・ヒーラー
中西研二(ケビン)

日本中の皆さん、ありがとう!

先月の2日で満60歳、還暦を迎えました。ありがたいことに各地でお祝いをしてくださいました。赤い頭巾や赤いちゃんちゃんこを仕立ててくださったり、果てはアメリカ版のピエロのような格好に仕上げられたり、それはそれは賑やかに祝ってくださいました。皆さまの嬉しいご好意に、心からの幸せを感じて涙が止まらなくなり、ご挨拶もろくにできない始末でした。本当にありがとうございました。

振り返れば、15年前始めた時は、ヒーリングという言葉も知らず近所の人から始まっていきました。その時点では、まさかこんな長い間、こんなにたくさんの方々とお会いすることになろうとは思ってもみませんでした。しかも組織もなく、たった一人で始めたものですから、呼んでくださる方がいなければ成り立ちません。ですから呼んでくださる方こそ、私にとってありがたい存在なのです。しかも、その方々は大抵ボランティアですから、長い間その役をやり続けることには無理があります。

当然、お世話してくださる方がいなくなって終わった所もたくさんあります。お世話係が交代して存続している会場もあります。もちろん、新規の会場もたくさんあって15年の長きにわたって続けることができました。

考えてみれば、こんな形で15年間も続けてこれたことが奇跡だなあと思います。どうしてもヒーリングをして、奇跡的な治癒が起こるとその人は私に向かって「ありがとう」と言ってくださいますから、つい、偉そうな態度や言葉遣いになる時があります。そんな時ハッとして「ヒーリングは私がしているのではない。目に見えない高次の存在がしてくださっているのだ」ということを思い出し、改めてその位置に付いています。

しかもヒーリングを受けられた方が、もし感謝されるなら、そんな機会を作ってくださった「お世話係」の皆さまのおかげです、と申し上げています。その気持ちは、最近また強くなりました。ありがたい、本当にありがたい。私のような者でも使っていただける喜びに感涙してしまいます。

飽きっぽい自分が続けてきた理由

60歳の意味を考えますと、還暦ですからぐるりと回って0位に立つという意味ですね。これをどう捉えるかは十人十色でしょうが、私はヒーリング活動の原点に戻るという意味だと思っています。夢の中で伝授された技法が本当に効果があるのか、半信半疑で始まりましたから一人ひとり終わって、その結果に誰より驚いたのは私自身でした。とにかく喜んでもらえることがとても嬉しかったのです。この社会の中で自分の居場所をようやく見つけたというのが本音の部分にありました。社会に出てからずっと競争社会の中で生きてきて、生きる意味を見失っていた私に、人々の純粋な笑顔がどれだけ新鮮だったかわかりません。

ヒーリングに出会うまでどの仕事も長続きしませんでした。職場を転々としていました。私が本当にしたいことが見つからなかったのです。職業に就いている時は、自分のモチベーションを上げるために好きになろうと努力しました。しかし、しばらく勤めると、もう飽きて転職を考えていました。自分のことをいつも「熱しやすく、さめやすい、しかも飽きっぽく根性なし」と思っていました。

「どうしてこんなにすぐ飽きるんだろう」飯のためにもう少し我慢をしてみても結局やめてしまう結果になっていました。そんな私が15年間も同じことをしている。しかも45歳から始めたのに、日本中に心から信頼できる親友、仲間でいっぱいになってしまいました。なぜこれほどまでに広がったか私なりに説明すると、

  1. ヒーリングが人々を確実に癒したこと。
  2. 「誰でもできる」簡単ヒーリングとしてセミナーを開催したこと。
  3. 集まりに参加するとワクワクドキドキ楽しいこと。

などが挙げられます。しかし、何より肝心なことは、私自身がとにかく楽しくて、ヒーリングをすることも、伝えることも、両方何時間していても疲れないことが大きかったと思います。

前月号にも書きましたが、大好きなことをしていれば人はどんどん輝いてきます。ガンバリや努力なんて無縁です。たとえ徹夜しても、それは遊びの延長ですから。皆さんだって人との語らい、パソコンゲームや、麻雀で徹夜してしまうこともあったでしょう。私のノリはそれとまったく変わらないからです。

今、この瞬間を全力で生きる、その時、その人の背後にいるスーパーセルフが応援してくれるような気がします。一流の学者、音楽家、スポーツ選手に共通しているのは無我夢中にやっていることです。パソコンゲームでも、ある目標をクリアすると嬉しくて、もっと上のランクへとさらに挑戦し続けるでしょう。そして目標をクリアすると脳内物質ドーパミンが分泌され喜びに満たされます。その連続の中に身を置くと、本人も驚くほどの高みに登ることになります。

私にとって「高み」とはたくさんの人々と喜びを分かち合うこと、それ以外にありません。人の為と書けば偽りになります。その意味は、偽善をののしることではありません。自分の内側の表れが外の世界というのなら、他人なんていません。他人を喜ばせることは自分を喜ばせることになります。

つまりすべては自分の為ということになります。結局私は、人が喜ぶ顔が見たいという形で自分が笑顔になることが目的だったようです。

(合掌)